約 47,166 件
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/200.html
<魏 261年> <蜀漢 261年> <呉 261年> 261年 永安四年(呉) 皇帝 孫休(呉景帝) 皇后 (空位) 皇太子 (空位) 三公(呉) 丞相:? 太傅:? その他の要職(呉) 太常:? 光禄勳:? 衛尉:? 太僕:? 廷尉:丁密(257?~262) 大鴻臚:? 宗正:? 大司農:? 少府:? 大司馬:? 大将軍:? 驃騎将軍:? 車騎将軍:劉纂? 衛将軍:? 上大將軍:? 主な事件 四年夏五月、大雨。水泉が涌溢。《三国志呉書三嗣主伝孫休》 秋八月、光祿大夫の周奕、石偉を遣わして、郡国を巡り風俗を見聞させ、將吏の清濁を監査させ、民が疾苦する所を調べさせた。為黜陟之詔.[一] 九月、布山が白龍が見られたと伝えて来た。《三国志呉書三嗣主伝孫休》 是歲、安吳の民の陳焦が死んだ。埋葬され六日後に更生する。土を穿ち出でる。《三国志呉書三嗣主伝孫休》 誕生者 死没者 注 ▲PAGE TOP 260年<< >>262年
https://w.atwiki.jp/sangokusiwiki/
はじめに このwikiは大人の遊戯室の三国志NETと戦国史NETの攻略を目的としたサイトです。故意なくて間違えた情報を書くのは仕方がありませんが、気付いたら修正及び削除をお願いします。 それと三国志NET&戦国史NETに関係の無いことを書き込むことも禁止とします。 参加者 名前 所属国(表―裏) 備考 諸葛霊 ―デニ wikiの主催者 お世話になってます 来期建国未定 アル ―横浜 裏ではある名前で参戦中 当ててみましょう~♪ 忠輝 ―エロ 太っ腹な御方 間違う事はおっしゃらない御意見番様です 近藤勇 自爆―? クライン ?―? 堕天使 ?―? 影陰 ?―? 天零 ?―? Mr.1000 ―新千年 とにかく知力を上げることしか考えない未熟児。 奏依 ―? ラスト2まで残った眠り国の主君来期は将として仕官予定 他にも居られたらどうぞ。 ?→不明 ×→登録無し 練習用 練習用ページ練習用ですので練習に使用してください 注意 ここはお互いの為になる情報を交換し、戦っていく場所です。ただし、国家機密になることを投稿したりするのは禁止です。アクセス制限を出す場合もあります。また、本サイトの情報を三国志NET・戦国史NETの国宛は勿論の事、個宛でも送らないで下さい。管理人はログによって、個宛などを覗く事が出来ます 又、他サイトからの転作は禁止です。自分で考えた物のみお願いします 重要事項 もしここが表か裏でばれた場合閉鎖(投稿内容全部削除実行?)します。 BY 管理人 奨励 称号の取得方法や戦術などを沢山書いて頂けるととても有り難いです。個人的に思っている事でも構いません。
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/118.html
<魏 231年> <蜀漢 231年> <呉 231年> 231年 建興九年(蜀漢) 皇帝 劉禅(後主・魏安楽公) 皇后 張氏(車騎將軍張飛の娘) 三公(蜀漢) 丞相:諸葛亮(前軍師将軍) 司徒: その他の要職(蜀漢) 錄尚書事:諸葛亮 太傅: 太常: 光禄勳: 衛尉:→ 太僕: 廷尉:→ 大鴻臚:→ 宗正:→ 大司農:→ 少府: 大将軍: 驃騎将軍:? 車騎将軍: 衛将軍:? 主な事件 九年春二月、諸葛亮はまた軍を出して祁山を囲む。初めて木牛を以って運搬する。魏の司馬懿﹑張郃は祁山を救援する。《三国志蜀書後主伝》 夏六月、諸葛亮は食糧が続かず軍を還す。張郃が追撃してきて青封で交戦となり、矢に当たって戦死した。《三国志蜀書後主伝》 秋八月、都護の李平が廢され、梓潼郡に流される。《三国志蜀書後主伝》 誕生者 死没者
https://w.atwiki.jp/sangokushi-taisen/pages/639.html
←Ver1.1.0C Ver1.1.5A Ver1.1.0D情報 Ver1.1.0D情報追加カード 計略調整 将器調整 2017/12/20稼働開始 公式サイト告知 http //www.sangokushi-taisen.com/news/20171220.html 義勇ロード「魏伝」「呉伝」「蜀伝」新章追加 追加カード 勢力 レアリティ 武将名 コスト 兵種 官職 武 知 征 特技 将器 計略 士気 説明 蜀 R 関銀屏 1.5 槍 - 5 5 2 勇 魅 槍 神武の目覚め 4 戦場にいる蜀の味方の武力の最大値が大きいほど武力が上がる。一定以上武力が上がると、さらに移動速度と槍の長さと槍撃ダメージが上がる R 諸葛亮 1.5 弓 文 3 10 3 柵 魅 活 脱獄の手引き 5 城内の最も武力の高い味方の武力と移動速度が上がり、戦場に出現する SR 孫尚香 2 槍 - 7 5 1 勇 魅 城 恥辱の報復 6 味方の武力と知力と征圧力が、自身の武力と知力と征圧力に応じて変化する 計略調整 勢力 武将名 計略名 調整内容 魏 曹彰 刹那の怪力 効果時間延長 曹操 覇者の求心 範囲拡大 関羽 武の咆哮 武力上昇値増加敵撃破時の征圧領域拡大 周宣 当たるも八卦! 武力上昇最大値増加 賈逵 賈侯渠 移動速度低下値増加 曹沖 神童の難問 効果時間延長 曹彰 黄鬚の剛腕 範囲拡大 呉 甘寧 残響の鈴音 武力ダメージ軽減率増加 周瑜 赤壁の大火 ダメージ減少 陸遜 駿才の大号令 効果時間延長 孫堅 猛虎蹴撃 溜め時間延長城ダメージ減少 歩夫人 孫呉の祈り 範囲拡大兵力回復量増加 孫韶 走射戦法 武力上昇値増加 留賛 戦歌の神速行 兵力減少間隔延長 蜀 関羽 武神の大号令 効果時間延長 諸葛亮 八卦の軍略 【1部隊】武力上昇値増加【2部隊】兵力回復量増加 姜維 受け継ぎし軍略 範囲拡大 諸葛均 征戦の助け 効果時間延長 鄧芝 蜀呉の連合号令 効果時間延長 漢 王允 漢鳴の離間 範囲縮小 何進 何進の大号令 範囲拡大効果時間延長 献帝 漢王朝の希望 【漢鳴0】復活時兵力増加【漢鳴3】武力上昇値増加征圧力上昇値増加効果時間延長 孔融 漢鳴の弱計 【漢鳴2】武力低下値減少【漢鳴3】武力低下値減少 司馬徽 水鏡の教え 知力上昇値増加範囲拡大 少帝 漢王朝の悲鳴 範囲拡大 曹操 天の鼓動 【漢鳴3】範囲拡大 田豊 隙無き攻勢 効果終了時に増加する士気の上限値増加効果時間短縮 陶謙 漢鳴の援軍 兵力回復量増加 張奐 漢鳴の剛槍 【漢鳴2】武力上昇値増加【漢鳴3】武力上昇値増加 群雄 牛輔 脱兎戦法 武力ダメージ軽減率増加 紀霊 多勢の攻め 効果時間延長 貂蝉 傾国の舞い 城ダメージ減少 馬超 錦馬超の叛撃 武力上昇間隔短縮 姜 女賊の猛威 武力上昇値増加 盧氏 妖狐の導き 効果時間延長 汎用 周泰など 漢の意地 効果時間調整(知力依存度低下) 将器調整 名称 調整内容 地の利 施設攻撃力増加 捕縛術 乱戦時速度低下値増加 副効果:攻城強化 攻城ダメージ上昇値減少
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/38.html
189年 中平六年→ 光熹元年→昭寧元年→永漢元年→中平六年(漢) 皇帝 劉宏(漢霊帝)→劉辨(漢少帝)→劉協(漢献帝) 皇后 何氏(諱某・南陽宛県)→劉宏崩御に伴い皇太后に。臨朝。→死亡→(空位) 皇太子 (空位) 三公 相国:(新設)→董卓(前太尉・189~191) 太傅:袁隗(前後将軍・189~190) 太尉:馬日磾(前射声校尉・188~189)→劉虞(幽州牧・189)→董卓(前司空・189)→黃琬(前司徒・189~190) 司徒:丁宮(前司空・188~189)→黃琬(前豫州牧・189)→楊彪(前司空・189~190) 司空:劉弘(前光禄勳)→董卓(并州牧・189)→楊彪(前太中大夫・189)→荀爽(前光禄勳・189~190) その他の要職 録尚書事: ■何進(大将軍・189)→(死亡) 太僕:? 大司農:? 光禄勳:→荀爽→? 執禁吾:丁原→? 大司馬:劉虞(前太尉・189~) 大将軍:何進(前河南尹)→(死亡)→(空位) 車騎将軍:何苗#1(前河南尹)→(死亡)→(空位) 驃騎将軍:董重→(死亡)→(空位) 衛将軍 地方官 司隷校尉:袁紹/樊陵→(死亡) 冀州:? 幽州牧:劉虞 并州牧:→董卓→ 青州:? 豫州牧:黃琬(188~189)→ 兗州:? 徐州:? 河南尹:/許相→(死亡) 荊州:? 涼州:? 揚州:? 益州:? 交州:? 主な事件 春二月、左将軍皇甫嵩が陳倉において王國を大いに破る《後漢書孝霊帝紀》 三月、幽州牧の劉虞は漁陽の賊張純を説き伏せ斬った《後漢書孝霊帝紀》 下軍校尉の鮑鴻が獄に下され死ぬ《後漢書孝霊帝紀》 夏四月丙午朔、日食有り《後漢書孝霊帝紀》 四月、太尉の馬日磾が免じられ、幽州牧の劉虞を太尉と為す《後漢書孝霊帝紀》 四月丙辰(4月11日)、皇帝劉宏が南宮の嘉徳殿で崩御する。年34歳《後漢書孝霊帝紀》 四月戊午(4月13日)、皇子辨が即位。年17歳。皇后何氏を尊んで皇太后とし、臨朝する《後漢書孝霊帝紀》 四月、天下に大赦する《後漢書孝霊帝紀》 四月、光熹と改元する《後漢書孝霊帝紀》 四月、皇弟劉協を渤海王と為す《後漢書孝霊帝紀》 四月、後将軍袁隗を太傅、大将軍何進を参録尚書事と為す《後漢書孝霊帝紀》 四月、上軍校尉の憲*磧は獄に下され死ぬ。憲*磧が渤海王協を立てようとして発覚した為である《後漢書孝霊帝紀》 五月辛巳(5月6日)、驃騎将軍の董重(孝仁皇后の兄の子)が獄に下され死ぬ《後漢書孝霊帝紀》 六月辛亥(6月7日)、孝仁皇后董氏が崩御《後漢書孝霊帝紀》 六月辛酉、孝霊皇帝劉宏は文陵(洛陽の西北20里。陵墓の高さ12丈、周囲300歩)に葬られた《後漢書孝霊帝紀》 雨水《後漢書孝霊帝紀》 秋七月、甘陵王の劉忠が亡くなる《後漢書孝霊帝紀》 七月庚寅(7月16日)、孝仁皇后を河間慎陵に帰葬する《後漢書孝霊帝紀》 七月、渤海王劉協を陳留王と為す《後漢書孝霊帝紀》 七月、司徒の丁宮が罷める《後漢書孝霊帝紀》 八月戊辰(8月25日)、中常侍の張譲・段珪等は大将軍の何進を殺害。このため中郎将の袁術は東と西の宮を焼き、宦官を攻めた。《後漢書孝霊帝紀》董卓が到着する前に何進は敗れ、虎賁中郎將の袁術は南宮を焼く《後漢書董卓列傳》 八月庚午(8月27日)、張譲・段珪等は少帝と陳留王を連れて北宮の徳陽殿に御幸した。何進の部曲の将である呉匡は車騎将軍何苗を擁して朱雀門の下で戦い、何苗は敗れ斬られた。《後漢書孝霊帝紀》何進の部曲の將である吳匡は、もと何苗が何進と同心しないことを怨み、又宦官と通謀していたのではないかと疑って、軍中に「大將軍を殺したのは車騎将軍だ」と命じた。遂に董卓の弟の董旻と兵を率いて何苗を朱爵闕下で攻め殺す。《三国志魏書董卓伝に引く英雄記》 八月辛未(8月28日)、司隷校尉の袁紹は、偽の司隷校尉である樊陵、河南尹の許相及び諸宦官を捕らえるよう兵を御し、しばらくして之を斬った。張譲・段珪等はまた少帝と陳留王を連れて小平津に走った。尚書令の盧植が張譲等を追って数人を斬り、其の他は皆黄河に身を投げ死んだ。少帝は陳留王とともに夜数里行き、民家で蓋も無い車を得て共に乗った。《後漢書孝霊帝紀》この時京師では「侯であって侯でない、王であって王でない、千乗萬騎北芒」という童謡が謳われていた。《後漢書孝霊帝紀に引く続漢志》河南の中郎将閔貢は天子を見つけ、騎馬を率いて之を追った。黄河で追い付き、閔貢は大声で張譲等を責め、張譲等は再拜叩頭して天子に辞し河に身を投げて死んだ《後漢書孝霊帝紀に引く献帝春秋》皇帝は八月庚午に諸黃門のために連れ出され步いて穀門を出た。走って河上に至り、諸黃門は黄河に投身自殺した。時に帝は年十四#3。陳留王は年九歲。兄弟は孤独に夜步行し還宮したいと願った。闇暝、螢火を頼りに行く。數里して民家があり露車に乗っていく。辛未、公卿以下と董卓は共に帝を北芒阪下に迎える。《三国志魏書董卓伝に引く張璠の漢紀》董卓は時適至るまで顯陽苑に駐屯し、帝が還えったのを聞くと兵を率いて帝を迎えた。《三国志魏書董卓伝に引く獻帝春秋》帝は董卓の兵を見て泣き叫び公卿たちは董卓に兵を退けるよう命じた。董卓は「公諸人は國の大臣でありながら王室を匡正することができず、國家を彷徨わせた。どうして兵を下げられようか!」として俱に入城した。《三国志魏書董卓伝に引く典略》董卓は帝と語ったがよくわからず、さらに陳留王とも語った。この騒乱の訳を問うと王は初めから終わりまで遺失なく答えた。董卓は大いに喜び、廢立の意を持った。《三国志魏書董卓伝に引く獻帝紀》河南中部掾の閔貢は皇帝と陳留王を助けて雒舍に至る。帝は一人騎乗し、陳留王は閔貢と一緒に騎乗していた。雒舍から南行し、公卿百官は北芒阪下において奉迎する。昔の太尉である崔烈が前導した。董卓は步騎數千を率いて來迎し,崔烈は退かせるよう叱責したが、董卓は崔烈を罵って「昼夜三百里を来てどうして退かねばならないのだ。私が卿の頭を断ち切れないとでも思っているのか?」言った。前に帝を見て「陛下が常侍小黃門に亂を作らせたようなもの。この責任は小さくありませんぞ?」又陳留王に歩み寄り「私が董卓です。私が抱き上げて行きましょう」と言った。閔貢から王を奪い取り抱き上げた。《三国志魏書董卓伝に引く英雄記》陳留王は董卓に抱えられるのを良しとせず、馬に騎乗し併走して行く。《三国志魏書董卓伝に引く英雄記》 八月辛未(8月28日)、還宮《後漢書孝霊帝紀》 何進、何苗が死んだことでその部曲は所屬が無く、皆董卓が収めた。《三国志魏書董卓伝》 天下に大赦する《後漢書孝霊帝紀》 昭寧に元号を改元する《後漢書孝霊帝紀》 并州牧の董卓は執禁吾の丁原(字建陽)を殺す《後漢書孝霊帝紀》董卓は又呂布に執金吾の丁原を殺させ、その部曲も併呑する。《三国志魏書董卓伝・後漢書董卓列傳》 司空の劉弘(字子高)が免じられ、董卓は自ら司空となる《後漢書孝霊帝紀》久しく雨が降らなかったので司空の劉弘を策免して董卓を之に代える。《三国志魏書董卓伝》 九月甲戊、董卓は皇帝の廃位を行ない、弘農王と為し《後漢書孝霊帝紀》、劉協が皇帝に即位した。年九才。母は王美人。《後漢書孝献帝紀》これより先、董卓は廢帝を謀り、朝堂に臣を集めて廃位を議したところ、尚書の盧植が反対した。董卓は怒り、罷免して誅さんとするが侍中の蔡邕に諫止されて免じた。九月甲戌、董卓はまた大いに會を開き、廃位を謀る。《三国志魏書董卓伝に引く獻帝紀》 董卓によって何皇太后は永安宮(周廻698丈、洛陽故城の中に在る)に還る《後漢書孝献帝紀》 天下に大赦する《後漢書孝献帝紀》 元号を昭寧から永漢に改める《後漢書孝献帝紀》 九月丙子、董卓は皇太后の何氏を殺す《後漢書孝献帝紀》 六月から九月まで雨が降る《後漢書孝霊帝紀》 是まで無員であった侍中、給事黄門侍郎員を各六人とする。公卿以下黄門侍郎に至るまで家人一人を郎と為し、諸署の宦官の欠員を補わせた《後漢書孝献帝紀》 九月乙酉、太尉の劉虞を大司馬と為し、董卓は自ら太尉と為し、鉄鉞(斧。生殺与奪権の付与)と虎賁(近衛兵)を加える《後漢書孝献帝紀》#2 九月丙戌、太中大夫の楊彪を司空と為す《後漢書孝献帝紀》 九月甲午、豫州牧の黃琬を司徒と為す《後漢書孝献帝紀》 使者を遣わして故太傅の陳蕃、大将軍の竇武等を弔う《後漢書孝献帝紀》董卓は司徒黃琬、司空楊彪らとともに上書して、陳蕃、竇武及諸黨人のことに関して追理し、人望に従った。そして陳蕃等の爵位を悉く復し、子孫を適用する。《後漢書董卓伝》 冬十月乙巳、霊思皇后を葬る《後漢書孝献帝紀》 白波賊(黄巾の郭泰等が西河郡の白波谷で起こしたのが始まり)が河東を冦略する。董卓は配下の将牛輔を遣わして之を撃つ《後漢書孝献帝紀》 十一月癸酉、董卓は自ら相国と為す《後漢書孝献帝紀》董卓は相國に移り、郿侯に封じられ、贊拜不名、劍履上殿の特権を得る。又董卓の母を池陽君と為し、家令、丞を置く。《三国志魏書董卓伝》 十二月戊戌、司徒の黃琬を太尉、司空の楊彪を司徒に、光禄勳の荀爽を司空と為す《後漢書孝献帝紀》 扶風都尉を廃し、漢安都護を置く。扶風都尉は比二千石の官で、武帝が元鼎四年に設置し後漢になっても続いた。しかし羌族が三輔を擾乱するに至り、之を省き、都護を置いて西方を総統させた《後漢書孝献帝紀》 十二月、詔して、光熹、昭寧、永漢の三号を除き、中平六年に復する《後漢書孝献帝紀》 冬十二月、曹操は己吾に於いて兵を起こす。時に中平六年。《三国志魏書武帝紀操》陳留の孝廉である衛茲は家財を投じて曹操に出資して兵を起こさせる。五千人。《三国志魏書武帝紀操に引く世語》 この歳、孝廉に挙げられたのは荀彧(後に梁国の亢父令)《後漢書鄭孔荀列伝》。 中平六年、董卓を并州牧と為す。又その吏兵は皇甫嵩に属させることになった。しかし董卓は再び上言して拒絶。再び勅命を違えた。その後、何進が召すところとなる。《三国志魏書董卓伝に引く靈帝紀》 誕生者 死没者 劉宏(諡孝霊皇帝) 鮑鴻(下軍校尉・下獄死) 憲*磧(上軍校尉・下獄死) 何進(大将軍・暗殺) 何苗(車騎将軍・戦死) 丁原(執禁吾) 董氏:孝仁皇后。 注 *#1何苗は何太后の同母兄。先嫁の朱氏の子である。《三国志魏書董卓伝に引く英雄記》大将軍何進は異母兄。 *#2後漢書とは異なり、三国志魏書董卓伝では司空から太尉となり、假節鉞虎賁の後、廢帝、王と何太后の殺人、陳留王擁立の順に書かれるが、ここでは後漢書にならった。後漢書董卓伝では、太尉に移ったとき前將軍事を領し、加節傳斧鉞虎賁、さらに郿侯に封じられたとなっている。 *#3少帝は、後漢書皇后紀靈思何皇后では翌年の初平元年、享年18歳で亡くなったとしており、後漢書孝霊帝紀でも即位の中平6年に17歳だったとしている。14歳は誤りであろう。 ▲PAGE TOP 188年<< >>190年
https://w.atwiki.jp/sangokushisenki/pages/22.html
物語に登場する二人の仙人の一人。 ランダムでアイテムをくれたり、武将を紹介してくれたりします。 物語中では基本的にアタリキャラの位置付け。出現すると「おおっ!」と思います。 またレア武将を紹介してくれます。 于吉と違い、左慈の場合はエンカウント時に「みかんを渡す」「諸葛菜を渡す」の2択から選べる。諸葛菜は無制限に持っている設定です。 みかんは600戦姫コインで購入できます。 諸葛菜を渡すと100%に近い確率でアイテムがもらえます。武将を紹介してくれることはまずありません。噂では武将を紹介してくれることもあるらしいのですが、ほとんどの人がそのようなイベントを体験して痛いため、おそらくその確率は1%かそれ以下くらいに設定されていると思われます。 また、画面をタップ連打したりするとたまにシステムエラーが発生し、この後、マイページへ飛ばされます。 この現象が起きると「あ、今、ひょっとして武将を紹介してくれる予定だったのでは?」等、変に勘ぐってしまい、妙な悔しさを味わう事になります。 また、風貌は切れ長の目でかっこよく見えますが、一度も武将を紹介しないまま諸葛菜を奪い続ける様を日々眺めていると、だんだん「キツネ目の男」にしか見えなくなるので不思議。 なお、ミカンで紹介してもらえた場合は☆☆☆以上の武将が確定ですが、☆☆☆の確率が著しく高いです。 ☆☆☆☆以上の武将を紹介してもらえる確率は、体感で10~20%程度です。 この事からも、このゲームが如何にレア武将を手に入れにくいかを伺い知る事が出来ます。 ※最新話にのみ出現します。
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/143.html
<魏 256年> <蜀漢 256年> <呉 256年> 256年 延熙十九年(蜀漢) 皇帝 劉禅(後主・魏安楽公) 皇后 張氏(前の皇后の妹・車騎將軍張飛の娘) 皇太子 劉璿 三公(蜀漢) 丞相:(空位) 司徒: その他の要職(蜀漢) 錄尚書事: 尚書令: 太傅: 太常: 光禄勳: 衛尉:→ 太僕: 廷尉:→ 大鴻臚:→ 宗正:→ 大司農:→ 少府: 大将軍:→姜維(前衛将軍) 驃騎将軍:? 車騎将軍: 衛将軍:姜維→? 主な事件 十九年春、姜維の位を進めて大將軍と為す。戎馬を督して鎮西將軍の胡濟と上邽にて落ち合うよう計画するも、濟は至らず。《三国志蜀書後主伝》 秋八月,姜維は魏の大將軍の鄧艾に上邽で破られ、姜維は軍を退却させ成都に還る。《三国志蜀書後主伝》 是歲、子の劉瓚を立てて新平王と為す。大赦。《三国志蜀書後主伝》 誕生者 死没者 ▲PAGE TOP
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/131.html
<魏 244年> <蜀漢 244年> <呉 244年> 244年 延熙七年(蜀漢) 皇帝 劉禅(後主・魏安楽公) 皇后 張氏(前の皇后の妹・車騎將軍張飛の娘) 皇太子 劉璿 三公(蜀漢) 丞相:(空位) 司徒: その他の要職(蜀漢) 錄尚書事: 尚書令:蔣琬(前丞相留府長史)/費禕 太傅: 太常: 光禄勳: 衛尉:→ 太僕: 廷尉:→ 大鴻臚:→ 宗正:→ 大司農:→ 少府: 大司馬:蔣琬 大将軍:費禕(尚書令) 驃騎将軍:? 車騎将軍: 衛将軍:? 主な事件 七年閏月、魏の大將軍である曹爽、夏侯玄等が漢中に向かってきたので、鎮北大將軍の王平が興勢圍で拒む。大將軍の費禕が諸軍を督して救援に赴く。魏は軍を退く。《三国志蜀書後主伝》 夏四月,安平王劉理が卒す。《三国志蜀書後主伝》 秋九月、費禕は成都に還る。《三国志蜀書後主伝》 誕生者 死没者
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/8.html
記事の書き方読み方 原典 当サイト内での記述は、いわゆる正史(後漢書・三国志・晋書など)を軸にして行なっています。 文章の原典は主に中央研究院「漢籍電子文献」を利用しています。補完的にちくま訳本「三国志」もこれに準ずるものと位置付けて利用しています。 その他、補填的に様々な文献や資料、諸説も取り入れつつ形成いきます。 記事には以下の項目を設けます。 年(西暦と年号) 皇帝 皇后 皇太子 三公 その他の要職(九卿・中書・尚書・開府など)以上は国ごと(漢・魏・呉・蜀・晋)に設定します。 主な事件とその解説 生没者一覧(出身と親族・死因) 注 ※年号について 史書によれば年号改元の際、その年の最初の日から改元された年号を使用して記述がされています。しかし現実には改元の詔が出されるまでは旧来の年号が使用されていたはずで、記述時と使用時で差があると考えられます。このサイトでは主な事件と解説では史書に準拠し、上部の項目「年」では両方の年号を記載することにしています。 ※当サイトでは漢・魏・晋の禅譲の流れを正統として、本紀的扱いで編纂しています。よって呉王のころの呉などはそれぞれのページに記載しています。 ※注は、筆者の意思が反映された文章です。仮説や小さな注釈を基本としています。 補足 年が特定できない内容の場合例えば黄初年間などの場合は、その年号の元年に記載し、その旨を明記。あるいは黄初年間初めなどの場合は、推定年に記載し、その旨を明記。 原典である「三国志」の遺漏・誤植と思われる場合補填的に使用する「後漢書」「晋書」「資治通鑑」などの文献を参考に記述。「三国志」と出典の違いを明記。 文言の解説など 語句・文言の説明は「注釈」のページで行います。記事の記述者の解説や論考は、すべてこちらのページへのリンクで行います。外部へリンクを貼る場合はこのページから飛ばします。 記述者の論考 もろもろの記事を合わせ読み、論考・論述を施す必要がある場合は、[論考]のページで行います。その場合も出典を明記します。 年表以外の記事 「特集」コンテンツを設けることで補います。特に事件の経過を時間軸にそって編集しなおしたものになります。「三国志」が紀伝体という著述方法をとっているため、事件の経過が追いにくく、特に戦闘の経緯はわかりにくいと思います。そこで当サイトでは紀事本末という形式で再編集することと致しました。 文中の外部リンク 極力文中の外部リンクは貼りません。外部のサイトのページが変わるかもしれませんので。 当サイトは常に独立したサイト構成を目指します(一部必要と思われる場合は除く)。 外部リンクはリンク集にまとめております。
https://w.atwiki.jp/internetkyogakusys/pages/439.html
正史三国志(wikisource中文) 太祖武皇帝、沛國譙人也。姓曹諱操字孟德、漢相國參之後。註01-01桓帝世、曹騰爲中常侍大長秋、封費亭侯。註01-02養子嵩嗣、官至太尉、莫能審其生出本末。註01-03嵩生太祖。 太祖武皇帝は、沛國譙人なり。姓は曹、諱は操、字は孟德、漢の相國參の後なり。註01-01桓帝の世に、曹騰は中常侍大長秋と爲り、費亭侯に封ず。註01-02養子の嵩嗣、官して太尉に至り、能く其の生出・本末を審(つまび)らかにする莫(な)し。註01-03嵩は太祖を生む。 太祖少機警、有權數。而任俠放蕩不治行業、故世人未之奇也。註02-01惟梁國橋玄南陽何顒、異焉。玄、謂太祖曰「天下將亂、非命世之才不能濟也。能安之者其在君乎!」註02-02年二十舉孝廉爲郎。除洛陽北部尉、遷頓丘令。註02-03徵拜議郎。註02-04 光和末、黃巾起。拜騎都尉、討潁川賊。遷爲濟南相、國有十餘縣。長吏多阿附貴戚、贓污狼藉。於是奏免其八。禁斷淫祀、姦宄逃竄、郡界肅然。註03-01久之、徵還爲東郡太守。不就、稱疾歸鄉里。註03-02